神経科学研究者のブログです。科学、教育などに関する雑多な私見、主張など。
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研究者が考える研究と研究業界の常識:でも理解されていないこと

ちょうど1年ほど前に「日本の「選択と集中」の何が問題なのか(図)」というブログを書きました。

 

図の再掲です。

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この時は図だけで、本文がありませんでした。その後、本文を書こうと思っていたのですが、時間が取れず、そのままになっていました。最近も「ムーンショット型研究開発制度」という「選択と集中」を連想させる研究について議論されています。そこで、今回から数回に分けて、文章を書いてみることにしました。

 

 

私は、「選択と集中」について、必ずしも完全に反対というわけではありません。しかし、日本のこれまでの「選択と集中」のやり方が、米国などのやり方などをみていて、問題があると強く感じているのです。そこで、問題点をいくつかまとめてみたいと思います。

 

1) 最新の論文発表やメディアで見えているのは、かなり過去のことを見ているに過ぎない

 

新聞で「4月1日。世界で初めて発見された。こんなことに役立しそうだ。」と大々的に報道されるニュース。

 

このニュースの意味をよく考えて欲しいと思います。41日に報道された内容。当たり前ですが、これって4月1日に「発見」されたわけではないです。41日に正式に発表されたというだけです。

 

もちろんリュウグウにクレーターを作ったとか、そういうリアルタイムの科学記事もあることはあります。でも、こういうリアルタイムの科学ニュースというのはとても少ないです。

 

ネイチャーなど、一応の論文原稿が完成し投稿してから、アクセプトそして発表されるまで、1年、2年とかかることも常です。しかも投稿するには、いろいろなデータを集めて論文を書く。その論文のほとんどは、主要な発見の裏付け、確認みたいな実験であったりするわけです。では、その一番大切な発見がいつあったか、というと、論文ができあがる何年も前であることが多い。つまり、有名な雑誌に発表される発見ほど、その発見は何年も前に行われたものであることが常です。もう発見の興奮が冷めてしまったころになって、ようやく論文になってニュースになったりする。

 

研究する人は、何か発見すれば、いろいろ始めます。発表したころには、とっくに次の段階に行っています。面白い論文がでてから何か始めるということは、マラソンに例えれば、トップランナーがゴールしたころになってスタートを切るようなものです。ですから、よく知っている研究者は、メディアで話題になっているからと言って、そういうことを理解しています。

 

これは、研究費の分配でも同じです。つまり、発表された論文を見て、何かを議論して、そこでそれを選択して、研究費を集中させようというのでは、どんどん遅れてしまう。文科省や財務省が大好きな新聞発表の切り抜きなどが根拠になっていては全くダメでしょう。

 

つまり、新聞発表が研究費配分のエビデンスになるという議論は間違っています。公になったときには、ずっと先に行っていることがほとんどなのです。過去を見て、議論を始め、決定していたのでは遅れるのは当たり前です。

 

米国の学会に行ったことがあるでしょうか。学術誌で見ることと違うことが話題になっていることがあります。米国の学会で盛んに話題になっていることが、しばらく経ってから雑誌で発表されます。そして、日本のかなりの人がそれを見て、やってみたいと思って、実際にやるわけです。そして、学会発表さえも、過去を見ているに過ぎないということを知るべきでしょう。

 

こういう問題を回避するにはどうしたらよいのでしょうか。1つは、外国の情報を積極的に得ようとすることです。Twitterなどには結構そういう情報があったりします。また外国にいる人に聞いてみるということもよいでしょう。中国のようにスパイみたいやり方もあるかもしれません。もう1つの方法は、こういう状況を全く無視して、日本で独自なことをやるということなのでしょう。昔は日本という欧米とは孤立した場所で独自なことが結構花開いたものです。でも、最近は情報が速くて、そういうのもなかなか難しくなってきていることも現実です。

 

 2)新しい時代には、古い時代のエビデンスは通用しないかも?

エビデンスに基づいた政策が大切といいます。さて、ここで注意すべきなのは、過去のエビデンスが、未来に適用できるかはわからないということです。

 

長篠の戦いで、戦国最強と言われた武田の騎馬軍団が、織田信長・徳川家康の連合軍が用意した鉄砲隊に倒されたという話があります(3000丁の火縄銃を揃えたとか、3段構えとか、この話の真偽は不明でありますが、教科書的にはそうなっているということで)。

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武田の騎馬軍団は、多数の火縄銃の時代には全く通用しなくなった。私は、一部の科学政策研究者や官僚がエビデンスだと声高に言っていることが、時代錯誤の騎馬軍団を使った戦法ばかりを研究して、それを適用しようとしているような気がしてならないのです。真に考慮するべきなのは、大量の火縄銃の出現ではないのだろうか、と思うのです。

 

時代錯誤の大艦巨砲主義の象徴として、1945年4月、一億総特攻の魁となって沈んだ戦艦大和。大艦巨砲主義の問題は明らかでしょう。新しい時代には、古い時代のエビデンスは通用しないかもしれないということを理解したいものです。

 

3)選択と集中を決める大御所と呼ばれる偉い人は、最近の方法や考え方に着いていけない。日本ではそれが特に激しい。

 

ワープロも自分で使えない大御所、Googleなどのインターネットを利用できない大御所、PubMedを自分で検索できない大御所がいる。本当なのです。どうするかというと、秘書みたいな人を雇ったりする必要があるのです。そんな人たちに、これからの科学・技術の方向が判断できるのだろうか?素朴な疑問です。

 

私などは、新しいサイトがでてくると、取り敢えず登録して、一通り観察しています。役立たずのサイトも多いですが、一応、様子を見てみるわけです。

 

こういうサイトでは、Facebookに登録してないと、簡単に登録できないサイトも多いです。Facebookに登録しないで、現在の科学技術の現状を知ることは不可能であるといってもよいと思います。大御所などは、FacebookもTwitterを日常的に利用したりしないです。

 

そこで出てくるのは、大御所の先生や企業の経営者が若い頃はこうだった。こうして成功した、という「自慢話」です。過去の「自慢話」や「経験」は、これからの時代には通用しないことが多いということを知っておくべきでしょう。日本の科学技術政策でも教育政策では、こういう肩書だけは偉い方々の個人的な限られた経験をもとにした提言みたいなものを、表面だけ取り入れているというものが多いです。こういうのを慎重に見極めることが、今、政策の策定者に求められていると思います。

 

なぜ、日本の大御所は新しいことに極端に弱くて時代から取り残されたようになっているのか、これは米国の大御所などを見ていると、非常に感じることなのです。