神経科学研究者のブログです。科学、教育などに関する雑多な私見、主張など。
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昨今の科学研究体制への苦情と提言

2014年もまもなく終わろうとしています。2014年の科学を振り返るということで、ネイチャー誌がそういう特集記事を出しています。
http://www.nature.com/news/365-days-2014-in-science-1.16573

やはりCDBの件が、入ってしまいました。高橋政代さんの臨床も含めてですが。。今年の3月に「理研CDBを守れ」というブログを書きましたが、いろいろあったものの、CDBという英語名は守られたようでよかったと思います。ただ、3月時点で書いていたメンタルケアが考慮されなかった結果については、とても残念に思います。

なぜ、あの問題が日本の2014年度10大ニュースに列挙されるような時事問題になってしまったのか?そして、なぜ、問題の後始末に、窮地に陥っている何人もの若手研究者を助けることができるような金額である2x1400万円もの費用を要したのか?多くの科学者が不思議に感じていると思います。

さて、あの問題で忘れられない言葉に、竹市さんのこの言葉があります。
「どういう状況にあろうと、研究者はきちっと成果を出すのが大事だ」
http://www.kobe-np.co.jp/news/iryou/201406/0007091283.shtml

これは、スポーツの根性論とか、そういう精神論につながるものですし、研究費やポストを確保するために、結果を出すというのは大切でしょう。それはそうです。研究者だったら、これ以外の方法はないはずです。

しかし、結果を出しても、台無しにしてしまうような仕組みが、この世の中には多すぎる。結局、こういうのが、再生医療とか、そういう分野だけでなく、脳科学も含めて、日本の科学技術研究のあらゆるところで、問題になっている。

これらを考えてみると、その根源には共通した問題があることに気づくわけです。今回は、4つの提言を通じて、これらの問題をわがままに指摘してみたいと思います。


1)科学以外の要素を使って科学研究を競争させるな
神経科学者である下條信輔さんが、朝日新聞のWebronzaにコラムを執筆されています。その中で、理研BSIについての「暴露」みたいなものがあって、楽しく拝見させていただきました。特に印象に残った言葉として、「競争はあくまで科学のルール、研究そのものの価値評価に則った競争でなければならない。」というのがありました。

大変貌を遂げてきた日本の科学の「間違い」下條信輔
http://webronza.asahi.com/science/articles/2014122000006.html

これは、昨今の科学研究のあり方を考える上で、非常に重要な議論であると思います。STAP問題が、再生医療をめぐる研究費獲得競争と関わっていたというのは、メディアの報道でも見られたし、理研の「研究不正再発防止のための改革委員会」による提言でもこのような趣旨の分析があったと思います。今から10-15年くらい前、iPS細胞が世の中にでる前には、理研CDBも笹井さんも、再生医療関係のかなりの予算を持っていた。そして予算の分配権限を持っていたから、権力行使もできたわけです。ところが、2005年以降、山中伸弥さんらによるiPS細胞の出現によって、CDBや笹井さんの予算が激減したというのは事実であると思います。これは、予算というだけでなく、権力の縮小も意味していたわけです。

こうした中で、研究費、権力獲得競争に勝つ「決定打」として、iPSを上回るもの、割烹着、リケジョ作戦を使ったのではないでしょうか。一方では、再生医療関係の成果を出せ、結果を出せ、という文科省財務省、更には社会の要請、あるいは外部や内部の研究者のプレッシャーもある。その結果、「手抜き」をして、ルールを守らなくても、とにかく結果を出したように見せかけることを優先する。そういう背景もあったのではないか、と思うのです。早く結果を出せとか、大きな成果を出せ、というようなプレッシャーがありすぎると、やはり仕事が丁寧でなくなるというのは、常です。これも、計画することが困難な科学研究の性格とは無関係に、科学研究を競わせている結果生じたわけです。

そもそも、科学研究に、科学の価値以外のものを大きく持ち込んだのは、米国学術界の商業主義みたいなものに原因があると思います。米国の科学で根本的におかしいと思うのは、プレゼンテーション能力とか、そういう売り込むような能力を科学者の能力として過剰に評価している。声が大きい科学者の研究ほど、その研究の評価が高くなる。プレゼンテーションのうまい科学者のセミナーは確かに心地はよいですが、私は、科学者のプレゼンテーション能力の評価などというのは、ある種のレイシズムだと思うのですが。。これは、アファーマティブ・アクションなどにも関係している議論です。いずれにしても、こういう研究そのものの価値とは違うものを過剰に評価してしまい、競争させるというのは、科学研究を歪める原因になっていると思います。

一方で、竹市さんの言葉を借りれば、「自然科学的に興味深いと評価」しただけだという言い訳もある。http://www.kobe-np.co.jp/news/iryou/201406/0007091283.shtml しかし、科学研究、特に再生医療みたいな分野では、自然科学的に興味深いという評価だけでは、逆に危険です。これは、核分裂が自然科学的に興味深いと言っていて、原子爆弾の製造を考えていないのと同じような論理です。私は、ここに、マネージメントのセンスの悪さを感じる。こういうのは、無作為の行為と認識されなくてはならない。つまり、その結果を意識して、介入することで、積極的にマネージメントする必要があるのです。誰かが科学以外の道具を使って科学研究の評価を捻じ曲げようとしないように意識する必要がある研究内容というのは存在するものだと思います。


2)運営における不誠実なヤラセ行為を止めよ
私は、STAP問題にあった背景の本質の1つは、「人事」であったと思っています。ところが、メディアなどでは、これを真正面から取り上げた記事を見たことがありません。1つは、小保方氏をCDBのユニットリーダーに採用した「出来レース」。これは、理研CDBの関係者は「出来レースではない」と言い張るが、本当でしょうか。幹細胞の分野のPIを募集するという「公募」の英文を書いたのは、一体誰だったのでしょうか?この出来レースを演出したことが疑わしい西川伸一さん(元CDB副センター長)は、都合が悪くなりそうになると逃げてばかりいるが、その経緯を詳細に説明するべきだと私は思います(私は、出来レースでなく、あの時点では責任を持って明確なリクルートを行うべきだったという立場です。そして出来レースだったから、無責任体制が生まれた。)。最近も、京大関係者である柳田充弘さん、佐々真一さんが、同じように、採用の経緯についての説明が必要だという考えを表明されていました(私のTwitterのRT参考@yamagatm3)。

もう1つは、理研CDBの次期センター長人事についても、理研の理事会に諮ろうとした、あるいは数回諮ったとされる(?)候補者は、一体、誰だったのか?(この記述を参考:http://scienceinjapan.org/topics/20140620b.html)笹井さんではなかったのか?この点は、川合理事あたりを中心に理研の上層部が隠蔽しているのでしょう。更には、その先は、文科省などの官僚の昇任人事や新設される日本医療研究開発機構AMEDの人事までつながっていることはなかったのか?これも、日本の学術界周辺に広く見られる「ヤラセ」体質が根源にあると見てよいのではないでしょうか?

こういうヤラセは、いろいろなところで見られる。例えば、演出効果が最大になる何月何日に突然発表するというサプライズ。STAP問題で言えば、笹井さんを次期CDBセンター長にするため、あの時期に発表し、それを使って、研究所の予算を獲得する。更に特定国立研究開発法人化をスムースにして、再生医療、国家戦略特区、男女共同参画など、アベノミクスの矢として、政府の施策のロールモデルに仕立てあげようとするタイミングもヤラセっぽいです。ここには、次の項目で議論する「官僚」が関係しています。

こういう「ヤラセ」が横行するのは、現代の科学研究体制の運営での病理であると思います。大衆をたぶらかすという誠実さのない行為が行われ、大抵の場合、その目的は、偉い人達が権力をほしいがままにし、利益を得るためでしかないと思います。そして、そのヤラセのストーリーを作るために、いろいろなストーリーが科学を含めて作られてしまうのです。STAPでのヤラセの大失敗は、ひたすらもみ消し。私は、政策に「ヤラセ」がなぜ必要なのか、よくわかりません。


3)科学者が、官僚をコントロールせよ
文部科学省関係の官僚であり、裏でこそこそと動いてきた菱山豊さん、板倉康洋さん、堀内義規さんあたりは、一連の報道でも全くといってお名前を拝見したことがありません。あるいは、理研も、出向官僚とか、公的組織なのに何故か世襲みたいな大河内眞さん(理研は昔の特定郵便局と同じなのか)とか、おられると思います。こういう官僚の方々というのは、普段は裏権力を使って、建築や研究などの予算をコントロールしているのに、問題が起こると、裏であることを良いことに、何も説明責任を果たさず、保身を考えているのでしょう。マスコミも、一般人である研究者のパパラッチなどやらず、こういう人達をよく観察し、「黒幕」として突撃した方がよいのではと思います。あるいは、マスコミそのものが、こういう官僚によってコントロールされているのかもしれませんが。

笹井さんの作戦も、結局は、官僚の機嫌をとって、一緒になって、予算を獲得しようとした。そういう経緯があったのでしょう。昔は、結構、官僚をコントロールできる科学研究者もいたのですが、最近は、予算という武器を持った官僚の機嫌を伺い、媚びを売るような研究者ばかりになってしまったのではないか、という現状があるのではと思います。

例えば、竹市さんの先生である岡田節人さんあたりだったら、事あるごとに官僚を叱り飛ばしたのではないか、と想像します。官僚のために科学者が動くのではなく、科学者が公僕である官僚を動かすのです。こういう関係が研究者と官僚の間にできれば、リーダーシップを取る研究者が、「科学」について不見識な言動を繰り返す下村文部科学大臣を教育するために文部科学省に乗り込むということも可能だったでしょう。逆に、文科大臣に、叱られて帰ってくるようでは話になりません。

私は、科学者が官僚より上に立って、真に科学的なメリットから、予算などの配分を決めるような仕組みを構築する必要があるのではないか?と思います。米国の官僚などは、公僕たる官僚の姿に近いと思います。もちろん、こういうことができるリーダー的科学者は、自らを律することができる研究者でなければならないことは論を待ちませんが。

これと関係して、CDB前センター長のメディアへの対応の仕方でも、言動を取捨選択、改変される可能性の高い「インタヴュー」ではなく、長文の寄稿などの形で対応した方が効果的だったのではないか、と思います。また、リーダー研究者は、ソーシャルメディア等を普段から使いこなし、危険性などに熟知するなど、慣れておく必要があると思います。そして、常々、こういう仕組みの問題を暴露していけば、科学者による科学研究政策の推進がやりやすくなるのではないか、と考えます。



4)科学者も人間であり、心理や感情の考慮が必要である
今年2014年の1月から始まったSTAP論文騒動ですが、12月19日に、その再現実験や検証実験が終わるという発表がありました。また26日には、ES細胞の混入だという報告も、遺伝研所長の桂勲さんを委員長とする委員会から報告がありました。やはり、大きく報道されていたようです。私は、むしろ、大きく報道させるように、仕向けたということがあったのではないか、とさえ思っています。そして、マスコミやら、あまり研究経験のないサイエンス・ライターみたいな人がいろいろコメントをする。それぞれ、もっともらしいことを言っているとは思うのですが、しかし、本質を突いているようには思えない。

私は、この時事問題というのは、もう少し「心理学」的に分析されるべきではないか、と感じています。もちろん、政治とか、研究費を含めての科学技術行政、 教育。。様々な要素があることは事実ですが、これまでのマスコミや研究者を含めての分析など見ていて、一番、欠けている視点ではないか、と。。

これも単純には書けないことですが、例えば、光るものを見て、本当に信じてしまった。それが人間関係等も含めた環境の中で思い込みが強まっていく。その中で「ごまかし」が始まる。あるいは「でたらめ」になる。そういうあの方の心の中の過程を含めて、政治に利用しようとした周りの人についても、どういう心理状態があったのか。笹井さんも丹羽さんもなぜ信じてしまったのか。笹井さんの報道対応の中ででてきた「細胞のサイズが違う」「実験をやったことのない人の机上の考えだ」なんていうのは一体なんだったのか?共同研究者の心理、あるいは、マスコミ の心理、大衆の心理など。。こういう感じの分析でしょうか。

場合によっては、「自由意志」に基づかないことだったかもしれない。うつ病で試料管理ができないとか、夢遊病者が殺人を犯してしまうような。場合によっては、精神鑑定なども必要なのではないか、と思います。そういう話は一度もでてこなかったのでしょうか?その過程では、法的には何の意味もない嘘発見器やfMRIなどの利用も参考程度にはなるかもしれません。この自由意志の問題というのは、実は大学院などでの教育問題にも関わっていると思います。教育では教えたりして育成することも大切ですが、職業選択上の不適性ならば早期に気づいてなんらかの措置を取るべきです。

ですから、周りの人が感じていたという「事実」を知ることは、大切だと、私は思います。これが真に「科学的」な態度です。竹市さんがCDB内部の調査報告書の中で「信頼性がないと判断して」削除してしまったと言われる内容ですが。。誰かが感じていたことという事実を記述するのが、科学的な態度であり、感じていたという印象は不確かだから記録に残さないというのは、科学的な態度だとは、私は思いません。実は、この不確かさ、曖昧であるという事実に、真実が隠されているのかもしれません。

こういうのは、ある意味で歴史研究や文学の世界かもしれませんね。科学的にいろいろ分析しても、やはり「自白」がない限り、本当のことは、最後までわからないと思います。。 こういうことがしっかり分析できるようになれば、「自死」などの背景理解や防止にも役立つことと思います。そして、実は、こういう科学研究者の心理や感情についての考慮が、男女共同参画を含めた日本の科学技術行政に根本的に欠損している視点であると思うのです。日本の科学技術行政には「愛がない」。私が、別のところで主張し続けてきたことです。

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次回のブログの更新は、2015年2月を予定しています。

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